
鍼灸は、『東洋医学』のいち分野として、
・漢方
・按摩
・指圧
・健康法(薬膳、養生法、運動療法etc)
とならんで、紀元前の中国に生まれました。
ルーツと広がり
古代中国(紀元前400~200年ごろ)に、古典医書がまとまりはじめ、東洋医学におけるバイブル的存在となりました。
これらの書物は、儒学の『六経五書』などになぞらえて例えられ、現代でも重要な書物として初学者から鍼灸師、医師、薬剤師、教育者、医学史研究者などの間で広く重宝されています。
発祥
鍼灸治療用のハリの原型は、『砭石』と呼ばれる「石のカケラ」でした。これは、縄文時代の『矢じり』に似た形をしており、化膿した部位を切開するなどの『外科処置用』として使われ始めた、と考えられています。
そうして、東洋的な手技療法の『按摩・指圧・導引』、薬物療法の『湯液』(漢方薬)、食事療法、運動療法などと共に、包括的にヒトのコンディションを管理する術として発展してきました。
古典医書
儒学に六経五書があるように、東洋医学にも『5大古典医書』があるとされます。その書物の選定には諸説ありますが、その書物の多くが『自然界と人体のシンクロ』『病に付け入るスキを与えない』『フィジカルとメンタルのバランス』などに言及しています。
以下では、その代表的な書籍をピックアップして観てみましょう。
①黄帝内経 素問 (こうていだいけい そもん)
『黄帝』とは、古代中国の神話的な君主のことで、日本でいうところの「古事記の登場人物」のような存在でございます。
そうして、『黄帝』の名前を冠した書物が成立したのが紀元前2世紀ごろ。そのうち、『基礎編』にあたるのが『素問』であります。
基礎理論のテキストとして、『陰陽説』『五行説』『五臓六腑』『経と絡』『病因説』などの特有の理論が説明されています。
②黄帝内経 霊枢 (こうていだいけい れいすう)
『黄帝内経』のうち、『応用編』にあたる書物で、素問とともに、『これらを読まない専門家はモグリ/ペーパードライバーだ』とさえ言われているとかいないとか・・・
臨床につながるテキストとして、『鍼の選択』『診断のヒント』『体質別の注意点』『季節や時間帯ごとの注意点』などが説明されています。
③難経 (なんぎょう)
前述の黄帝内経から約300年後に成立した書物で、『素問、霊枢を踏まえて理論を発展させた書』『さらにレベルアップするための質疑応答をまとめた書』としての位置づけになっております。
そこで疑問を『難』と表現し、Q&A形式で81の篇から構成されています。
④神農 本草経 (しんのう ほんぞうきょう)
『神農』は『黄帝』と並び称される神話的な人物で、『医薬の祖』とされています。
逸話では「さまざまな草木に触れたり、嘗めたりして、毎日嘔吐下痢を繰り返しながら、毒性や薬効を明らかにした」とされており、のちの時代に続く『湯液』(とうえき:漢方薬のこと)の源流とされています。
⑤金匱玉函経 (きんきぎょくかんきょう)
このタイトルの意味は『貴金属でつくられた箱に収納するほどの、貴重な書類』ということになりますが、編集の方法によっていくつかのバージョンと呼び名があります(金匱要略、傷寒雑病論など)。
この書物の特徴としては、急性感染症(カゼなど)を入り口として、さまざまな内科的症状の進行・分岐・変化に対応しつつ、その他のイレギュラーなケースも併せて説明した、テキストブックとしての価値が高いものとなっています。
そうしたバックグラウンドを、著者の張 仲景 は、序文に
『私の一族の70%をはやり病で失ってしまった。これは、どうにかしなければならないと痛感し、テキストを執筆したのだ。』
『この本を読んで病の変化が理解できたならば、完璧な治療は無理だとしても、病因の特定や予後の予想に役立つであろう・・・』
などと記しました。
食・漢方・鍼灸・その他 のトータルケア
そうして、これらの書物の立ち位置を総合するならば、
鍼灸の真価は、『薬餌の及ばざる所を助く』
(食事療法と漢方薬でケアしきれなかった分野をフォローする存在)である。
ということが古典医書に書かれています。
そういうバックグラウンドがありますので、
『草木を用いずと雖も、鍼艾に之の大概を知らずべからず』
(漢方薬を扱うかどうかは別として、鍼灸施術者は、薬膳や漢方薬がどういうはたらきが有るかは、大体くらいは理解しときなさいよ)
という金言が残されております。
こうした相互作用を把握することで、鍼灸施術の内容を微調整したり・適正化することができます。
と、同時に東洋医学的な養生法、生活の知恵としてワンポイントアドバイスの中に活かされています。
例)肩こりが、東洋医学的な「貧血」から起こっている場合
↓
足へのお灸が有効なケースが多い
↓
貧血対策の漢方薬と併用すると、『刺激過多』の可能性がある
↓
貧血対策は漢方薬に任せて、他の処置に集中する
アジアへの普及
アジアのなかでも、とくに東アジアへ鍼灸は漢方とともに広がり、ご当地ごとの気候や現地の人々の体質に合わせてアレンジされていきました。
以下にいくつかの例を観てみましょう。
チベット
薬草療法が文化的に根強いチベットで、薬草療法の補助的手段として鍼灸は『トゥルング』として普及しています。
朝鮮半島
歴史的に朝鮮半島の国は、中国と離合を繰り返してきましたが、そのなかで、「朝鮮半島の気候や住民の体質に、そのまま古典医書が当てはまらないことがある。古典医書をベースに、半島にあわせた鍼灸・漢方が必要だ。」
こうした要求から、執筆されたのが『東医宝鑑』【トゥイホガン】(1613年)です。
この東医宝鑑の著者を主人公に描いた、韓流時代劇『ホジュン』でご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
ちなみにこの『ホジュン』、鍼灸・漢方専門家の間でも「専門監修がかなりしっかり作りこまれている」と評価の高い作品となっております。
台湾
おおまかに観て、中国本土とかなり近い/同一に制度が整備されています。
理論的には、伝統的な中国古典を教材としながら、近代(文化大革命)に理論を再構築した学問を専門的に『中医学』と呼びます。
また、制度的には中医学を専門とする医師を『中医師』として認定するなど、中国/台湾特有の法的整備もなされています。
日本への伝来と独自の発展
日本に伝来してからの、日本独自の進歩/発展を観てみましょう。
日本伝来
鍼灸が日本へ伝来したのは、平安時代。
仏典や、生薬、などと共に日本へ伝わり、当時の歴史的資料がいまも正倉院や京都・仁和寺などに現存しています。
ただし、江戸時代になるまでは鍼灸・漢方は身分が高い人たちのためのものでったことが知られています。
日本での発展
鍼灸が日本伝来から700~800年後の、江戸時代中期・後期。
学術的にも、医療機関としても、大いに発展した時期でした。
時代背景として、江戸が当時世界一の大都市であったこと、識字率の高さから人材育成がスムーズであったといった事情もあったようです。
民衆への普及
このころ、一般人が鍼医へ通うだけでなく、自宅でお灸をすえるなど、一部は民間療法として普及した時期でもあります。
当時の鍼灸の認知度の高さは、落語の演目になる程度には高かったことが示されています。
(強情灸、たいこ腹、など)
また、「江戸時代版 家庭の医学」として当時ベストセラーとなった『養生訓』(貝原益軒 1713年)のような書物の流行も、東洋医学的な価値観と民衆を橋渡しする存在となりました。
風土・体質に合わせた発展
漢方のほうでは、日本の風土や日本人の体質に合わせて、処方がアレンジされた例が多いのもこの頃のことです。場合によっては、江戸バージョンの処方だと、中国オリジナルの生薬の『半分量』まで減らす例もあるとか。
そうしてこの時代あたりから、『どうやら、日本人向けにマイルドな治療のほうが結果が良いようだ』ということで、鍼灸の方でもカスタマイズが進んでいった模様です。
消滅の危機と再興
江戸時代に一度は全盛期を迎えた、日本での鍼灸でしたが、近代史では2度の消滅の危機を乗り越えています。
西洋化の波
一度目は明治維新、二度目は戦争と敗戦がきっかけとなり、『西洋化への要求』の高まりとともに、消滅の危機を迎えました。
明治維新期
幕末から、蘭学をはじめとして社会が西洋化していくなかで、『廃刀令』『廃仏毀釈』『廃城令』などと同様に、「鍼灸も廃止してしまったほうが良いのではないか?」といった機運がありました。
これに対して、東洋医学の専門家たちは忍耐強く鍼灸・漢方の必要性と効果を説きつつ、存続に働きかけました。
また、同時期に海外から訪日していた要人が体調不良におちいったところ、鍼灸・漢方で手当てを行い効果があった、という一件もアピールポイントとなりました。
結果として、明治政府の治世では
『鍼灸は、医師の指導・管理のもとでおこなうこと』と法制化されました。
この制度はのちに、度重なる改正を経て現在の制度(厚生労働省が管理する国家資格)になっています。
戦争とGHQ統治と
明治のはじめから、日本では大小の事変や戦争が多い時代でした。
殊に「戦争と医学」という面から観ていくと、東洋医学は非常に「戦争との相性が悪い」という特徴があります。戦場で負傷した兵士を前にしては『悠長にハリをしている場合じゃないだろう』という批判も止むを得ない状況です。
一方、銃や砲弾による外傷の手当は、西洋医学の得意分野であり、二度の大戦のなかで、外科手術やリハビリテーション医学が大きく発展したのは広く知られるところです。
近代日本でも、明治政府は1870年に、ドイツ医学をお手本にするというお触れを出しています。
そうして太平洋戦争の敗戦からGHQの統治の期間が始まるわけですが、GHQの鍼灸に対する評価は「鍼灸?そんな野蛮なモノはやめてしまえ」というものでした。これに危機感を持った、日本側の鍼灸師団体や研究者・教育者などが交渉や説明・陳情にあたった結果、『西洋医学の視点から、鍼灸を説明・分析すること』『教育施設やカリキュラムなどの、再整備・管理をすること』等を条件に新しい管理体制のもとで戦後日本の鍼灸として存続することになりました。
古典的鍼灸の再興
こうして、戦後日本でいわば『再出発』することになった日本の鍼灸でした。
GHQが要求した、『西洋化を意識した鍼灸』は、法整備・学校制度・資格管理などの面で大きく発展するきっかけとして恩恵はあったものの、それでも懸念は残っていました。
とくに、「伝統/古典」から軸足を外して・すべて西洋医学の視点で判定してしまうと、もはやそれはオリジナルとは似ても似つかないものになってしまうおそれがあったためでした。
「柔道の試合をレスリングの審判にジャッジさせるくらい無理がある」とか、「本当に鍼灸と言えるのか?もはやNeedling Treatmentになってしまうのではないか」といった類の意見を持った鍼灸師が少なからず居たようです。
そうした時流のなかに在って、『本当のオリジナルな鍼灸は何なのか?』『2000年前のオリジナルを踏襲しつつ、それを現代人に適用させるにはどうすべきなのか?』といった問題意識から、学術的な指針を求める鍼灸師が、当時若手を中心に『東洋医学復興運動』が起こりました。
『古典へ還れ。
しかして、古典を再検討せよ。』
とスローガンが掲げられました。